Mie Hayamizu photography

写真 と 造形研究ノート 
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2018.12.28 Note

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 モヨロ貝塚からカエル意匠の土器が出土しています。
カエルのモチーフは縄文時代によく見られ、
一説では再生のシンボルと考えられています。

ところが、オホーツク人が形成の一員として関わっていると考えられる
後のアイヌ文化になると、カエルは忌み嫌われる存在になるようです。
そこに至るまでに何があったんでしょう?不思議です。

カエルのワードで思い浮かぶのは、
アイヌ工芸を芸術まで高めたと言われる彫刻家の砂澤ビッキ氏。
アイヌ語でカエルを意味する「ビッキ」が子どもの頃からの愛称だったそうです。
アイヌ文化では魔除けとして忌み嫌われる言葉を
名前としてつけることがあるそうですよ。愛を感じさせる文化ですね。
彼もそうであったのでしょうか?
それとも元気いっぱい跳ね回るような子だったから?
とっても気になります。

砂澤氏の作品は野外美術館などで拝見しているのですが、
BIKKYアトリエ3モアにはまだ行ったことがありません。
機会をつくって行ってみたいと思っています。

写真はキタキツネですが、実は足元にカエルがおります。

【参考文献】
知里幸恵『アイヌ神謡集』p129 1978.08.16 岩波書店

【参考サイト】
「北海道歴史文化ポータルサイトAKARENGA」縄文のさらなる発展—続縄文文化
「平塚市博物館」カエルの文様がある有孔鍔付土器(勝坂式土器)
「帯広百年記念館 アイヌ民族文化情報センター 」カエル
「アイヌと自然デジタル図鑑」アイヌの伝承 アチカラテスとハラテスの話
「中標津郷土館」町指定有形文化財蛙意匠の土器(続縄文時代)
「マガジンハウス コロカル」BIKKYアトリエ3モア

♯アイヌ ♯砂澤ビッキ ♯蛙文土器

2018.12.25 Note

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 千葉県の有吉南貝塚をご存知でしょうか。

有吉南貝塚では、縄文時代の特徴である
甕被り葬(かめかぶりそう)と称する埋葬方法がみられます。
甕被り葬は網走市の史跡モヨロ貝塚でも見られます。
また、オホーツク人の特徴でもある骨を加工する技術の高さや
その骨器に規則性をもって美しく配置された点状の装飾からも、
モヨロ貝塚との共通性を覚えずにはいられません。

しかし、モヨロ貝塚はおよそ1300年前の遺跡で、
有吉南貝塚は約4500から4000年前(縄文時代中後期)の遺跡です。
甕の装飾も竪穴住居の形状も、オホーツク文化とは異なります。

もちろん、彼らは縄文人ではありません。
オホーツク文化の土器に縄目文様もありません。

大きく時を超えながらも、どことなく共通性を感じるのは、
北海道では寒さにより稲作が出来ず縄文の暮らしが続いたように、
おそらく、オホーツク人たちの故郷も寒い地域であったがゆえに
縄文時代とよく似た暮らしが長く脈々と続いていたのでは?
・・・などと、妄想を巡らせるのであります。

写真は早朝の鱒浦海岸。

【参考文献】
千葉市 「第7章 発掘成果のまとめ 」

【参考サイト】
千葉県教育委員会 有吉南貝塚354号跡出土埋葬関連遺物
有吉日枝神社 有吉南貝塚の紹介

♯縄文 ♯甕被り葬 ♯貝塚

2018.12.23 Note

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 太宰治の娘にあたる津島佑子氏の遺作
『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』を読む。

アイヌの母と日本人との間に生まれた少女の物語。いのちの物語。
物語の始まりは、網走にあった資料館ジャッカ・ドフニ。
そこから叙事詩のような壮大なストーリーへと繋がっていきます。
文字を介してアイヌに伝わる子守歌のあたたかな歌声が聞こえてくるようでした。

現実のアイヌの悲しみの歴史は『網走小史』『新網走小史』の中に書かれています。
こちらも合わせて是非読んでいただきたいです。

写真は資料館ジャッカ・ドフニの前の土手から見た風景。
名古屋学院大学の研究者の論文によれば、
この風景をゲンダーヌさんと義妹の北川アイ子さんは
ポロナイスクに似ていて懐かしいと言っていたそうです。

【参考文献】
津島佑子『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』 集英社 2016.05.02
網走史編纂委員会 『網走小史』 網走市役所 1955.03.25
榎澤 幸広 , 弦巻 宏史 「ウィルタとは何か?」 名古屋学院大学 2012

♯網走文学 ♯アイヌ ♯ジャッカ・ドフニ ♯大曲

2018.12.21 Note

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 サンゴ草をご存知でしょうか。
塩湿地に生育するアカザ科の一年性植物で、草丈は10~35センチ。
1891年に厚岸湖(厚岸町)のカキ島で発見され、アッケシソウの名が付いたが、
秋に茎や枝が紅紫色に色づくことからサンゴ草とも呼ばれている
と、辞書にはあります。

北海道出身の直木賞作家、渡辺淳一氏の作品の中には
能取湖のサンゴ草が出てくるシーンがあります。

“「五月から六月頃が一番きれいです。
そのころまた来てください、六月なら雪がなくて、
紅珊瑚がさかりでサロマ湖も能取湖も真っ赤になります。」
海を前にした湖が珊瑚で紅く染まった風景はどんなであろうか、
美砂は本当にもう一度来ようと思う。”(『流氷への旅』より)

実際は、卯原内のサンゴ草が美しく色づくのは
8月下旬から9月中旬頃なのですが、物語ですからね。

網走が舞台となっている他の文学作品を知りたい方は
『網走文学散歩』に素晴らしい作品が紹介されております。
お勧めです。

写真は能取湖卯原内サンゴ草群落。
オホーツクブルーの中に真っ赤な絨毯を敷いたようでとても美しいです。

【参考文献】

網走市教育委員会『網走文学散歩』1999.03.25
渡辺淳一『流氷への旅 氷紋』渡辺淳一全集第8巻 株式会社角川書店 1996.05.27 

♯サンゴ草 ♯能取湖 ♯網走文学

2018.12.15 Note

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 能取岬にはフランスの技術者レオンス・ヴェルニー設計の
名残を受け継いだ八角形灯台が設置されています。
初点灯は1917(大正6)年。

写真は10年ほど前に撮影した能取岬灯台。
100周年を迎えた2017年に大改修が行われ、
現在は再び美しい姿となっています。

能取という地名はアイヌ語の
ノトロ(岬・の処(ところ))に由来するそうです。

【参考図書】
『日本大百科全書(ニッポニカ)』能取岬

【参考文献】
「レオンス・ヴェルニーについて」能取岬説明看板

【参考サイト】
横須賀市上下水道局「フランソア・レオンス・ヴェルニー」

♯網走 ♯能取岬灯台 ♯大正時代

2018.12.14 Note

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 考古遺物は、古代の人々の様々な情報を知る手がかりであり、
それまでは工芸品として扱われていたのですが、
近年になり考古遺物を美術の一部として認識する流れが生まれました。
それは、1951年に芸術家の岡本太郎が縄文土器をみて衝撃を受け
翌年に『縄文土器論』を発表したことが始まりと考えられています。

古代の人々が土器や道具に装飾を施したのは
異界と現世を繋ぐための一種の儀礼であると考えられるので、
美術品として眺めることに違和感を覚える方もおられると想像しますが、
例えば、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具に美を見出し
手仕事への愛情を感じ取るという民藝運動のような楽しみ方をするのも、
古代人の造形に精神の美を感じとり崇拝するような感覚を教授するのも
考古世界への入口のひとつとして、あっても良いのではないでしょうか。

写真は東京大学文学部常呂資料陳列館。

【参考サイト】
佐々木勝 縄文の美-岡本太郎とその周辺- 『岩手県立博物館だより』№.111
文化庁「有形文化財(美術工芸品)」
日本民藝協会「民藝とは何か」

♯造形美 ♯網走大曲遺跡出土の縄文土器は美しい

2018.12.11 Note

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 モヨロ貝塚から発掘されたオホーツク式土器には、
ソーメン紋と呼ばれる特徴的な波状文様以外に
水鳥、カエル、クマの足跡など動物意匠の装飾が施されたものがあります。
モチーフの詳しい話は後々書きますが、土器に施されたこれらの模様には、
オホーツク人の自然に対する畏敬の念が込められていると考えられます。

オホーツク式土器には、模様をシンメトリーに配置する法則がみられ、
それにより全体的にまとまりがある調和のとれた形状となっています。
配置の秩序性から、よく考えられて作られたものだということがわかります。

水鳥とクマの足跡土器はモヨロ貝塚館、
カエルの土器は郷土博物館で見ることが出来ますので
是非一度、ご覧になってみては如何でしょうか。

写真は鱒浦海岸。水鳥の羽根。

♯オホーツク文化 ♯オホーツク式土器 

2018.12.09 Note

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網走市大曲にあった、樺太の先住民族ウィルタの
文化的な品々を収めた北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ」。
現在は閉館され、文化財は北海道立北方民族博物館に収蔵。

ジャッカ・ドフニはウィルタ語で「大切なものを収める家」の意味で、
私が訪れた時には、ウィルタの生活用品や、楽器、
ゲンダーヌ氏の義妹にあたる北川アイ子さんの
美しいウィルタ刺繍などが飾られていました。

ここは、戦争という理不尽な歴史に巻き込まれ、
網走で暮らすことになったウイルタのダーヒンニェニ=ゲンダーヌ氏の
北方少数民族の人権と文化を守る強い意志が込められた場です。

写真は約15年前にPolaroid Supercolor635で撮影した
ジャッカ・ドフニ前庭にあったアウンダウと呼ばれる冬の家を再現したもの。

※冬の家と表記するところ夏の家となっておりましたので訂正いたしました。

【参考文献】
司馬遼太郎『オホーツク街道―街道をゆく〈38〉 』朝日文芸文庫
経済の伝書鳩「北方民族博物館で企画展」2018年02月14
田中了,D・ゲンダーヌ 『ゲンダーヌ-ある北方少数民族のドラマ』 1978.02.20 現代史出版会

【訪れた施設】
ジャッカ・ドフニ(1978開館-2010年閉館)

♯ウィルタ ♯ジャッカ・ドフニ ♯北方民族博物館

2018.12.07 Note

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 写真はオホーツク文化時代の動物意匠の出土品。

動物の生き生きとした姿や表情からは、
オホーツク人が身近な動物の姿を
日頃から良く観察していたことが伺えます。

彫刻された動物たちは、
口角が上がり笑みを浮かべているような
愛らしい表情をしているのが特徴です。

オホーツク人は、彼らにとって神である動物たちに、
いつでも機嫌よく平穏にあってほしいと考えていたり、
楽しい気持ちでまた人間界に戻ってきてほしいという願いを
造形に込めていたのかもしれません。

♯動物意匠 ♯モヨロ貝塚 ♯オホーツク文化

【訪れた施設】
モヨロ貝塚館

2018.12.05 Note

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名 称 南6条遺跡
所在地 網走市南6条東2丁目~東5丁目
種 別 遺物包含地
時 代 続縄文、擦文
立 地 河岸段丘(砂層)
標 高 5~6 m
出土遺物 土器、石器

解体が始まる網走高校のあたりは遺跡なんですね。

実家が土建屋なので、地面を深く掘るような仕事がある時は
土器が出ませんようにと祈ると言う話を子どもの頃に聞きました。
土器ひとつで工事に取り掛かれなくなるのです。
それでも「土器出てこーい」って思ってしまいます、わたしは。

友人の使っている駐車場も遺跡でした。身近すぎる。

写真は15年ほど前にOLYMPUS PEN EE3で撮影した網走高校。

【参考サイト】 北海道教育委員会 文化財・博物館課

♯網走高校跡地 ♯続縄文 ♯擦文

2018.12.04 Note

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 7世紀(奈良時代)から13世紀(平安時代)頃の
竪穴住居を復元した女満別元町遺跡の話です。
女満別駅前の道を住宅街に入った角地にあります。

竪穴住居内を確認することは出来なかったのですが、
碑文の構造様式が擦文文化とオホーツク文化との折衷様式という説明から、
おそらく擦文時代の四角い竪穴住居に、オホーツク文化の特徴である
石組炉が設置されているトビニタイ文化の様式と推測しています。

内陸部へと移動し海に依存した暮らしを営まなくなったオホーツク人は、
もはやオホーツク文化とは呼べない為「トビニタイ文化」として区別されました。
トビニタイという名は、1960年に東京大学の調査隊により
羅臼町飛仁帯(トビニタイ)地区で遺跡が発掘されたことに由来しています。

写真は能取岬。 能取半島では擦文時代の遺跡が見つかっています。

【参考文献】
野村崇・宇田川洋『続縄文・オホーツク文化』新北海道の古代2 北海道新聞社 2003年7月
北海道立北方民族博物館 『北方民族博物館だより 52号』 2004年1月23日

【訪れた施設】
女満別元町住居遺跡 北海道網走郡大空町元町

♯トビニタイ ♯擦文 ♯オホーツク文化

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